2026.2.1
**◆ 観世音寺・法隆寺・三十三間堂
──三つの名刹を貫く「移築」の一本線**
観世音寺をご存じでしょうか。
奈良の法隆寺、京都の三十三間堂──
地理的にも時代的にも離れた三つの寺院です。
ところが、この三つが 一本の太い線でつながっている可能性 がある。
そう気づかせてくれたのが、僕の愛読書のひとつ、
米田良三氏の『法隆寺へ移築された』でした。
読み進めるほどに「信憑性しかない」と思わせる説得力がある。
そして、みんな大好き三十三間堂も“移築されていた”としたら──
去年、先輩と訪れたあの場所の見え方が一変する。
その根拠となるのが、観世音寺に残る古絵図や礎石の分析です。
観世音寺の古絵図には、寺の奥に 異様に横長の建物 が描かれています。
その姿は、現在の京都・三十三間堂と驚くほどよく似ている。
三十三間堂は平安末期に京都で建立されたとされますが、
この古絵図が示唆するのは、
「三十三間堂の原型は、九州に存在した」
という衝撃的な可能性です。
さらに絵図には能舞台らしき建物も描かれ、
当時の観世音寺が文化の中心だったことを物語っています。
古絵図の横長建物(大房=三十三間堂)を手がかりに、
米田氏は次のような歴史の流れを提示します。
金堂・講堂・五重塔・三十三間堂を備えた巨大伽藍。
法隆寺西院伽藍の構造が法興寺と一致。
奈良朝は阿弥陀信仰を禁じていたため、移築されなかった。
礎石の規模が法隆寺より一回り小さいのはそのため。
平忠盛が得長寿院造営の際に移築したとされる。
この流れが正しいとすれば、
ということになります。
観世音寺の礎石は、法隆寺より一回り小さい。
これは単に「別の寺だから」では説明がつきません。
むしろ、
“移築された法興寺の跡地に、規模を落として再建した”
と考える方が自然です。
建築技術者・飯田満麿氏も、
礎石の再配置・縮小再建は古代技術で十分可能だと指摘しています。
法隆寺・釈迦三尊像の光背銘には、
「法興元三十一年」
と刻まれています。
これは九州年号「法興」(591〜622)と一致します。
もし法隆寺が九州の法興寺を移築したものなら、
この光背銘は極めて自然に理解できます。
その扉を開く鍵のひとつが、この「移築」という視点なのだと思います。
2026.1.25
大好きなYOU TUBE もぎせか先生と進撃の信政さんがコラボレーションしているーーー
凄すぎます
https://youtu.be/M13fx0xdy9w?si=1c1_chaPWzWm2FKZ
入間郡・高麗村+高麗川村の合併(1955年)
新しい町名を住民公募で募集
「日が高く昇る」=縁起の良い意味を持つ「日高」が選ばれた
田中英道先生が提唱されていた日高見国とは『関係ない』らしいです
2026.1.25
それは、スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズが書いた『Auld Lang Syne』。
日本では「蛍の光」として知られ、卒業式や閉店の音楽として、誰もが一度は耳にしたことのある旋律だ。
この歌がどのようにして日本に根づいたのか――その道筋にはいくつかの説がある。
その中でも、ひそやかに語られてきたのが「フリーメイソンの会員たちが伝えた」という物語である。
明治期、日本には多くの外国人技術者や外交官が滞在していた。
彼らの中には、スコットランド出身のフリーメイソンも少なくなかったと言われる。
異国の地での再会を祝う夜、彼らはウイスキーを片手に、故郷の歌を口ずさんだのかもしれない。
――“Should auld acquaintance be forgot…”
古き友よ、忘れてしまうものだろうか。
その歌声は、居留地のサロンの窓から漏れ、通りを歩く日本人の耳に届いたのかもしれない。
あるいは、彼らと交流した通訳や教師が、その旋律の美しさに心を動かされ、学校教育の場へと持ち帰ったのかもしれない。
もちろん、これは確定した歴史ではない。
しかし、当時の日本にフリーメイソンの会員が多く滞在していたこと、そして彼らがバーンズの詩を愛し、集いの場で歌っていたことは十分に想像できる。
文化とは、こうした“人と人の偶然の接触”から生まれることがある。
一方で、『蛍の光』が日本に広まった一般的な経緯もよく知られている。
西洋音楽教育の教材として採用され、文部省唱歌として編曲され、やがて「別れの歌」として日本文化に深く根づいていった。
その普遍性が、日本人の感性と響き合ったのだろう。
だが、もし本当にフリーメイソンの会員たちが、異国の夜に歌ったその声が、日本のどこかで誰かの心に灯をともしたのだとしたら――。
「蛍の光」は、単なる唱歌ではなく、国境を越えた友情と再会の象徴として、日本に届いたのかもしれない。
1月25日、バーンズの誕生日。
スコットランドでは今も、ハギスを囲み、ウイスキーを掲げ、バーンズの詩を朗読する「バーンズ・ナイト」が開かれる。
250年以上続くその伝統は、彼の詩が今も人々の心に生きている証だ。
そして日本でも、静かに歌い継がれる「蛍の光」。
その背景に、遠い異国の詩人と、明治の夜に歌を交わした人々の姿を重ねてみると、いつもの旋律が少しだけ違って聞こえてくる。
2026.1.23
今、冬の星空 オリオン座の周りにたくさんの星座が見えます
オリオンの右肩 ちょっと左側に木星が
その右上 おうし座の右肩がプレアデス星団(=スバル)です。車のエンブレムとおんなじに見えます。
この本お薦めで--す
はじめての ほしぞらえほん (株)バイ インターナショナル
2026.1.4
現在AIに嵌っています。文章も一瞬で作ってくれます。
医者が不要になる日も近い🙌
(以下作文してもらいました。縄文土器から鉄器は生まれた??)
鉄は、人が鉄を作ろうとして生まれたのではない。
土器を焼く炎の中で、偶然、赤い粘土が黒い金属へと変わった。
その“失敗作”を拾い上げた者こそ、文明の扉を開いた最初の人々だった。
そしてその技術は、海の民の手で世界へ運ばれ、ケルトとなり、ヒッタイトとなり、再び日本へ帰ってきた。
鉄器とは、土と火と海が生んだ“偶然の奇跡”なのだ。
2026.1.8
現在、ギリシア神話に没入している私ですが、神話理解を深くするには(聖書もですが)星座の知識を整理した方が効果的。というわけで先日、府中プラネタリウムにいってきました
府中市郷土の森プラネタリウムでは
「UYUNI」 という全天周映像が上映されています
府中プラネタリウムの上映スケジュール(抜粋)
なかなか見られない南半球の特別な夜空を是非見に行ってください。休日は駐車場が混雑するので電車&バスがお勧め!!
2026.1.4
こんな説があります
歴史的事実として、ダ・ヴィンチには 1476〜1478年の2年間 の記録がほぼ消えている。
どこにいたのか不明
何をしていたのか不明
その後、突然「万能の天才」として再登場
画家→発明家→解剖学者→軍事技術者へ“急激に進化”
この“空白”は、歴史学でも「ダ・ヴィンチのブラックボックス」と呼ばれる。
空白期間の後、彼は突然:
ヘリコプター,パラシュート,装甲車,潜水服,ロボット,自動巻き機構,飛行機械,解剖図(現代医学レベル),光学理論(眼科に近い),水力工学,都市計画,近代的な武器
を描き始める。これは、当時の科学レベルを完全に超えている。
歴史学ではこう説明される:
天才だから
観察力が異常だった
多分野に興味があった
ルネサンスの空気があった
しかし、“空白の後に突然天才化”という現象は説明できない
2026.1.8
下山ダッシュって聞いたことがありますか?
たまたまTVを見ていて出てきたんですけど、JR東海飯田線において「電車を一度下車した後にその先の駅で再度同じ電車に乗る」という「意味は無いが妙な事態を実現することのようです。
下山村駅 - 伊那上郷駅間は電車に乗れば5駅、約6kmの距離。しかも途中の飯田駅で電車は長時間停車するため、普通電車は通常この区間を13分から28分ほどかけて運行する。しかし直線距離にすればわずかに2km程度となる。つまり、2キロという距離を約20分で駆け抜ければ、先行する電車に追いつくことが可能である。
『究極超人あ〜る』という漫画が最初?という話も
飯田線ダッシュで検索するといくつかの場所があるそうです。(というか一回の乗車でダッシュを何回もやるんですかね??
因みにイチロー選手のものまねニッチローさんは飯田の出身。飯田焼肉大使を務めているそうです
古代史シリーズ⓵
みんな大好き「男はつらいよ」主人公・寅さんの口上は
物の始まりが1ならば、国の始まりが大和の国、島の始まりが淡路島。
泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、博打打ちの始まりが熊坂の長範。
そうです国の始まりは大和ですね。そして大和の最高神は天照大神ですね。また天照大神が祀られているのはもち&ろん伊勢神宮内宮。
しかし最高神である天照大神はなぜ大和ではなく伊勢に祀られているのでしょうか?
※ヒント;
ちなみに伊勢神宮ができる前に天皇家がお参りしていたのは石上神社、大和神社、大神神社です。それぞれ御祭神を調べてみてください。
答えは後日、待ちきれない人は答え聞きに来てください
https://youtube.com/playlist?list=PLyqSXHOhwMlZuyr0EMQJbPozo5SlgRnh0&si=-DNeD4w6feKSw-uJ
時間のある人はこちらがお勧め。かなり調べつくしてるチャンネルです。
古代史シリーズ②天照大神の前に大和にいた神とは??
結論から言いましょう。三大神社に祀られるのは、『饒速日』と呼ばれる神様です。饒速日って??
崇神~垂仁天皇のころ国が乱れたそうです。その時やっぱり昔からの「神を改めて祀ろう!」と石上神社、大三輪(大神)神社、大和神社を建立しました。その時石上神社に奉納されたのが布都御魂&十種神宝(とくさのかんだから)です。布都御魂はスサノヲがヤマタノオロチを退治したときの剣と言われます。つまり大和はもともと出雲系=物部系の神が祀られていたのです。
続く…
古代史シリーズ③知っている歴史は真実なのか??
ちなみに古事記・日本書紀は日本の正史だといわれます。本当でしょうか?
もともと物部を神としていたヤマト。これを操作したかった勢力が存在します。古事記でかなりぼやかしたが、ちょっと物足りない世界の神話要素を混ぜながら8年掛けて日本書紀を完成させました。
ちなみに日本の歴史は少なくともこの時、明治維新、大東亜戦争のときに変形され今日に至ります。
明治維新後は天照大神を中心とした一神教ぽく、GHQ占領後は神話を全く否定した歴史が真実とされているようです。
コロナ騒動と一緒で本気で信じている学者、お金に魂を売った学者などが混然一体となって今に至るのです。??
続く…
古代史シリーズ④伊勢神宮の場所はなぜ伊勢に向かったのか?
少々脇に逸れてしまいました。本題に戻りましょう。崇神天皇の代になぜ飢饉干ばつが起こり神を改めて祀らなければならなかったのか?
そしてわざわざ新しい神=天照大神を祀らなければならなかったのか?
おそらく王の系統少し変わり天照を祀ろうとした。笠縫邑(三輪山のどこか)に祀ったところ、不満(=干ばつ、飢饉と表現した?)が起こった。仕方が無いので天照に適した場所を探すことになった。これが現在、元伊勢と呼ばれる神社にあたるのではないでしょうか?
続く…
古代史シリーズ⑤山の神は大学駅伝とは関係ない?
また脇に逸れましょう。Google mapで比定地の一つ檜原神社のあたりを検索すると元伊勢散策案内所というものがあります。
やはり天照の旅はここから始まったのですかね。
https://maps.app.goo.gl/sGdxDtKmAvz8hXFw6
そのそばの池には『古事記』を描いたといわれる柿本人麻呂(※出雲口伝による)の碑があるのも興味深いですね。
もう少し南には山辺道の碑があります。ここを挟んで神武&イスケヨリ姫の屋敷があったといいます。姫が年長でしかも神武はマスオさん状態であったことから口うるさい妻=『山の神』という言葉が出来たとのことです(※古代日本正史による)。
続く…
古代史シリーズ⑥天照はなぜ放浪したのか?
古代史シリーズ下の方に行っちゃったので一旦、上の方に折り返します。
ここまで来て少し不安になりました。天照は元々遷座していたのに追い出されたのか?もしくは受け入れられなかったのか?
崇神天皇の事績を見ると『祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。』とあります。その後、天照はあっさり笠縫邑に移ったのに倭大国魂神?を祀るのには大変苦労しています。つまり元々の神は饒速日=出雲系であり、日本書紀では名前を変えて(わからないようにして)大物主や布留の御魂etc.を祀ったとしているようです。
結局、定着できなかった天照は放浪し、元伊勢を転々とすることに?
やっぱり崇神天皇(ハツクニテラススメラミコト)は大和にいなかったのでしょう?
『日本書紀』は出来事をかえていますから天照が男神or女神なのかは不明です。
https://youtu.be/24EFUosEYfo?si=QZM4fH1gHGzcSByk
つづく…

2025.1.29
最終的に天照大神は出雲の国で重要なポジションを担った猿田彦(出雲口伝では伊弉諾伊弉冉の子供)の手引きにより伊勢に落ち着いたとされます。しかしながら「古代日本正史」執筆時点で12⁻3社と言われていた元伊勢はその後どんどん増殖しているとのことです。
もしかして観光目的??
神武天皇のお顔も明治天皇をモデルにしているとの説があります。
現在、私は阿波邪馬台国説に入ってしまいましたので出雲口伝、正史、その他のピタピタ・ポイントを見つけていきたいと思っています。
今のところ部活でいえば『天照大神』はとっても偉いOBなので近場ではなくちょっと離れたところで意見をしていただく立場になって頂いたのかな?と思っています。ちなみに天皇陛下が二度目に伊勢参拝をされたのは明治の時だったとのことです
| 医院名 |
|---|
| 菊池眼科医院 |
| 診療科目 |
| 眼科・小児眼科・斜視・弱視 |
| 院長 |
| 菊池 信介 |
| 所在地 |
| 〒192-0904 東京都八王子市子安町1丁目34-12 |
| 電話番号 |
| 042-643-0325 |
| FAX番号 |
| 042-642-7481 |
| 連絡方法 |
| お電話にてお問い合わせください |
ここに文章を入力してください